2003年11月28日AM6:49作成
2004年09月01日AM6:00更新
だっち著
正二位右大臣 織田信長について


○織田信長(おだ のぶなが) れいな曰く「小田野ぶ長」 にぃにぃ曰く「押(←存在しない字でしたが似ている字を抜粋笑)長」
 千奈美に…(高橋)愛ちゃんのお母さんは信長推しだそうです。愛ちゃんも推しに違いありません(笑)

○誕生
 1534年5月11日(諸説:3日・12日・28日)、尾張那古屋城に父:織田信秀、母(正室):土田(とた)御前の間に第一子として誕生。
 幼名:吉法師(きっぽうし)。父信秀は当時尾張守護の斯波(しば)氏の家臣である守護代:織田大和守の一族で、清洲三奉行の
 一人(大名の家臣のそのまた家臣)に過ぎませんでした。しかし、領内の港等で資金を得て兵力を拡大していった信秀は、戦上手
 だったこともあり勢力を拡大していきます。信秀は今川氏豊(義元の末弟)の那古屋城を奪い、僅か4歳になる吉法師をその城主に
 据えます。また1542年には小豆坂(あずきざか)の戦いで今川義元の軍勢を破り、西三河(現在の愛知県東一帯)を領します。

○織田弾正忠信秀
 信長の父信秀は尾張の虎と恐れられ、勢力を拡大していきましたが、1544・47年に二度、美濃へ攻め入り斎藤秀龍に破れます。
 信秀は北に斎藤、東に今川と強敵を迎え兵力の分散をせざるを得ませんでした。同年、三河岡崎の松平広忠は信秀に度々攻めら
 れており、これを好機と今川義元に援軍を求めるべく子の竹千代(後の徳川家康)を人質として送ります。しかしその護送の最中、
 戸田康光の裏切りに遭い、竹千代は敵方の信秀の元に送られ人質となります(この際、信長は竹千代と何度か会い遊んでいる)。
 その間、広忠は嫡男の竹千代奪還を目論見ます。しかしその2年後である1549年、広忠は家臣に殺害されてしまう(享年24歳)。
 この混乱に乗じ、義元は主不在の岡崎城に家臣を派遣し、実質松平家を乗っ取ります。これで三河をほぼ手中に収めた義元は
 同年11月、安祥城で信秀と戦い、これに勝利します。その際、安祥城に据えていた織田信広(信長の異母兄)が今川方に人質に
 取られました。戦後、織田今川両家の交渉により、竹千代と信広は人質交換され、信長は竹千代と離れることとなる。

  ※以下は織田信長と斎藤家・今川家関連の出来事を年表にまとめたものである(信長の家臣 滝川一益の伊勢侵攻等は除く)。

  1547年 信長の父、織田弾正忠信秀、大軍をもって美濃(現:岐阜)に進攻するが国主の斎藤山城守秀龍(道三)に敗退。
  1548年 今川義元、松平広忠を援ける為、太原雪斎を大将とし三河に出兵。再び三河小豆坂で信秀と戦い、勝利する。
       信秀の家老で信長の傅(ふ)である平手政秀の政治手腕により、織田家は美濃の斎藤秀龍と和睦。
       秀龍、娘の帰蝶(濃姫)を信長に嫁がせることで織田家と同盟関係となる。
       秀龍、帰蝶に信長が本当の大うつけ(愚か者)ならば刺し殺すよう命じ、短刀を渡す。
       秀龍、家督を嫡子義龍に譲り隠居。剃髪して道三(どうさん)と号す。
  1549年 三河岡崎の松平広忠、家臣の岩松八弥に暗殺される(享年24)。
       義元、織田方に広忠の死を伏せ、雪斎に七千の兵を与え三河岡崎に出兵、これを属城とする。
       雪斎、織田領に兵を進め三河安祥城を攻略。安祥城城主の織田三郎五郎信広(信長の異母兄)を人質にとる。
       戦後、雪斎の斡旋により織田方の松平竹千代(後の徳川家康)と今川方の織田信広との人質交換が成る。
  1550年 信秀、流行病にかかる(諸説あり)。
  1551年 信秀の病状が悪化。信長、父の為に僧侶を呼び祈祷する。
       織田信秀、急逝(諸説あり 享年42)。信長(18)、織田家の家督を相続する。
       信秀の葬儀、万松寺にて行われる(信秀自身が建立)。織田一族 近親 重臣ら七百名が参列。読経が終わり
       焼香に取りかかろうとするも、喪主である信長の姿は未だになく。織田家筆頭家老林通勝らは堪り兼ねて
       信長の後見役である平手政秀に遅刻の儀を詰め寄る。その時、境内が騒々しくなった…荒々しい足音…信長だった。
       父の葬儀の席で正装せず…茶筅髷に胸をはだけた湯帷子、下は袴さえつけていない普段の姿であった。
       その風貌に一同ざわめく。信長は自身に注がれる視線や周囲のざわめきに頓着することなく、堂々とした足取りで
       寺内を進み、祖父信定(信秀の父)の左隣の自分の席へどっかり胡坐(あぐら)をかき座す。
       信定、信長の格好を見て思わず顔を顰(しか)め
       「…このうつけがっ。人前で何たる格好じゃ。喪主であることを忘れたのか」と吐き捨てる。
       「申し訳ございません」と信長は丁重に頭を下げるも、感情なく。対する弟信行は正装で持す。喪主信長が参った所で
       焼香始まる。僧侶にうながされるままに、信長は仏前に進み出る。
       目の前の仏壇には信秀の戒名である「万松院桃岩道見居士」と書かれた白木の位牌が佇む。
       信長、過去を断ち切るかのようにカッと目を見開くと、いきなり抹香を鷲掴みにし、「喝!」と声を発すると
       (抹香を)位牌に向かって投げつけた。抹香は位牌に当たると霧散して、信長の前に散ってゆく。
       信長、踵(きびす)を返すと、呆気にとられている参列者達の前を通り過ぎて本堂の外に出る。
       一同、その奇行に愕然とするも、この葬儀に招かれていた筑紫の僧は「天下を取る器」と評す。
       信長、父の死により僧侶を斬る。これを機に無神論者になったと思われる。
  1552年 信長、爺である政秀の諫言を聞き入れることなく素行改めず。周囲に弟の信行擁立の動きが出始める。
  1553年 信長一番の味方であった平手政秀、(信長の)素行を諫める諫言五箇条を献じ自邸で割腹自殺(享年62)。
       信長、政秀の変わり果てた姿を拝し悲しみに打ち拉かれ涙す。その死骸を他者には触らせず。
       (政秀の死を聞き)道三動く。道三、信長に会見を提案。信長、快諾するも妻帰蝶は父道三が夫の命を狙っているものと
       悟り、会見を辞退する様説得を試みるが聞き入れられず。三ヵ月後、道三はうつけと言われる娘婿信長が実際に
       どんな人物なのかを見る為、尾張富田の正徳寺にて会見。道三は信長の素行を責めて斬るつもりであった。
       道三、会見前に信長を見ようと正徳寺手前の小屋で家老の堀田道空、春日丹後らと物見をする。
       信長、相変わらずの井出達でうつけ振りをまざまざと見せつけられる。
       しかし、いざ会見となると信長は(政秀の讒言を聞き入れ)正装で現れる。道三、度肝を抜かされる。
       会見後の道三、側に侍る道空と丹後に対し「息子たちはうつけの門前に馬を繋ぐ」と信長を評す。
       以後、道三は信長の尾張統一を手助けする為に、安藤守就を主力とする援兵を何度か差し向ける。
       信長、平手政秀の菩提を弔う為に「政秀寺」(せいしゅうじ)を建立。
  1555年 駿河(現:静岡)、遠江(現:愛知と静岡の一部)の太守今川義元の軍師である太原雪斎の斡旋により、
       甲斐(現:山梨)の武田信玄、相模(現:神奈川)の北条氏康との間に政略結婚を媒介とし、甲相駿三国同盟を成立さす。
       義元、背後の驚異が無くなると西上(上洛)指向を強める。三河の領有権確保の為、尾張と三河国境周辺を攻略する。
       今川家の名軍師太原崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい)、臨済寺にて病没(享年60)。
  1556年 義龍、父道三の次男孫四郎義重への偏愛と信長を好んでいることを疎んじ、稲葉山城に一万七千五百の軍勢で挙兵。
       義龍、稲葉山城で弟の孫四郎義重と喜平次を斬る。道三、募兵するも千七百の軍勢が揃うのみ。
       道三、「美濃国を信長に譲る」旨の遺言状を認め、翌日息子義龍と長良川に戦い敗死(享年63)。
       信長、舅道三を援ける為自ら兵を率いて美濃に進軍するも「斎藤道三殿討死」の敗報を得て帰国。
       信長、短期間のうちに平手政秀、斎藤道三というよき理解者を失う。
       信長、美濃の斎藤家と再び敵対関係となるも、道三の遺言により「美濃へ攻め入る口実」を得る。
       弟の信行と林通勝・柴田勝家らは反信長の旗を揚げ挙兵。信長と稲生に戦うも敗れ、降参。
       勝家、剃髪する。勝家はこの戦いで信長の実力を認識し、以後忠誠を誓う。
  1557年 織田信定(信長の祖父)、死去。
       信行、守護代織田信安と謀って再び信長に背く。勝家の内応もあり信長は事前にこの報を知る。
       信長、病気と偽り信行を清洲城に見舞いに来させ、斬る。信行慙死。
  1559年 信長配下の鳴海城主山口教継が上洛を目指す義元に寝返る。大高城と沓掛城も今川方となる。
       信長、岩倉城の織田信安を追放し、今川領を除き尾張をほぼ統一。
       信長、今川方の大高城(城主鵜殿長照)を孤立させる為、丸根砦 鷲津砦を築く。
  1560年 当時日の本で最大勢力を誇っていた駿遠三(駿河-するが 遠江-とおとうみ 三河-みかわ)の東海三国の太守で
       海道一の弓取りの異名を持つ今川治部大輔義元、乱世に終止符を打たんと京への上洛を開始。

    5/10 - 今川先鋒隊の大将、井伊直盛・葛山氏元・松平元康(後の徳川家康)らが駿府(すんぷ)を出陣(総勢二万五千)。
    5/12 - 義元本隊と従軍する各諸将、駿府の留守を嫡子氏真(うじざね)に任せ発つ。その日藤枝に泊(今川方に凶行多数)。
    5/13 - 今川先鋒隊、天竜川越え。義元本隊、掛川に泊。
    5/14 - 義元本隊、引馬城にて泊。義元、暑さにたまらず御輿を開け、扇子を扇ぐ。
    5/15 - 義元本隊、吉田城にて泊。
    5/16 - 今川先鋒隊、池鯉鮒(知立)に到達。義元本隊、岡崎城にて泊。
    5/17 - 今川先鋒隊、尾張国に侵入。義元本隊、池鯉鮒にて泊。
    5/18 - 義元本隊、沓掛城に入る。
         元康、大高城に兵糧を運び入れ、城将の鵜殿長照を援ける。
         信長、清洲城にて軍議。重臣達の主張する「篭城策」を信長が撥ね付ける。
         信長、夜の軍議でも「世間話」をするだけで家臣に帰宅を命じ寝る。
    5/19 - 未明、戦い始まる。松平元康(兵二千五百)、丸根砦の佐久間大学盛重(城兵七百)を攻撃。盛重奮戦し元康苦戦。
         今川方の朝比奈泰朝、井伊直盛(兵二千五百)は鷲津砦の飯尾定宗、織田玄蕃允秀敏(城兵五百)と交戦。
         信長、佐久間盛重と織田秀敏より、砦が今川方に攻撃されている旨の報告を受ける。
         信長、その報に飛び起き、小姓に湯漬けを用意させ食す。「敦盛」を三度舞う。
         信長、単騎で清洲出陣。岩室長門守・山口飛騨守・佐脇藤八・長谷川橋助・賀藤弥三郎がこれに続く。
         闇夜の清洲城に法螺貝が鳴り響く。柴田勝家ら家臣はまともに武具を着ず出陣。信長の後を追う。

         早朝、信長、熱田神宮着。熱田神宮へ戦勝祈願を行い願文を捧げる。この頃、織田軍は三百程度。
         熱田神宮参拝が終了した頃には織田軍は千程に膨れ上がる。
         義元、沓掛城を出て大高城に向かう。

         辰の刻、信長、笠寺・丹下砦を通り、善照寺砦に入る。
         織田方の丸根砦、鷲津砦が陥落。佐久間大学盛重・飯尾定宗・織田玄蕃允秀敏討ち死に。
         元康、大高城に帰還し義元の到着を待つ。
         織田方の佐々政次・千秋季忠・岩室長門守らが兵三百をもって、(信長)本隊の存在を今川方に気付かれぬよう
         おとりとなり鳴海城方面に兵を進め今川軍と交戦。佐々政次・千秋季忠・岩室長門守討ち死に。
         義元へ近隣の寺社より戦勝祝いの品物が続々と届けられる(信長の時間稼ぎとも)。

         義元、次々の戦勝の報に機嫌をよくし、桶狭間山にて陣を張り休息をとる。
         義元、佐久間盛重・飯尾定宗・織田秀敏・佐々政次・千秋季忠・岩室長門守らの首実検を行う。
         信長、中島砦に移動する。
         簗田政綱より信長の元へ「義元公、田楽狭間にて御休憩」の報が入る。
         信長、中島砦より義元本陣付近へ。その際、今川軍斥候と織田軍が小競り合い。
         桶狭間周辺に突然の強風、激しい雷雨。義元本陣五千は鎧を脱ぎ捨て飲酒する者が続出。

         田楽狭間(桶狭間)の戦い
         信長、雨がやんだのを見計らって、全軍二千をもって義元本陣に奇襲を掛ける。
         義元、周囲の騒ぎを察するが、酔った家臣が暴れているものと勘違いをする。
         義元、織田木瓜の旗を見つけ、織田軍の奇襲と解り慌てる。家臣も大混乱。
         義元、家臣の島田左京、沢田長門守らの勧めで大高城に撤退を試みる。
         織田軍、逃げる義元を追撃し、服部小平太忠勝が義元に一番槍を突ける。
         よろけた義元を羽交い絞めにした毛利新介良勝、(義元に)指を食い千切られるも首を取る。
         今川治部大輔義元、討ち死に(享年42)。
         今川軍、総崩れ。
         今川方の浅井政敏・井伊直盛・飯尾乗連・葛山信貞ら名立たる武将も相次いで討ち死に。
         義元本隊の先鋒瀬名氏俊ら今川軍、駿河・遠江・三河に向けて退却する。

         申の刻、信長、勝ち鬨をあげる。清洲城に義元の首を掲げながら凱旋の途につく。

         元康、義元敗死の報に愕然とし、大高城を撤退。池鯉鮒に向かう。

    5/20 - 信長、清洲城にて義元の首実検。
         元康、撤退中に一揆とぶつかるも事なきを得、大樹寺にて陣を張る。

         鳴海城主の岡部元信、退却する今川軍(自軍)をよそに、織田勢に抗戦を続ける。
         元信、織田方に義元公の首の返還を請い、篭城する。
         信長、元信の態度(忠勤)に感服し、義元の首を返す旨伝える。
         元信、鳴海城との交換を条件とし義元公の首を貰い受け、開城し帰途。
         元信、駿河帰還途上「戦で手柄がない」と勝利に油断していた織田方の三河刈谷城を攻め、陥落させる。
         刈谷城主の水野信近を討ち死させる。

    5/23 - 元康、今川軍が退却するのを待って岡崎城に入城。そのまま城主となる。今川家の呪縛が解ける。

       義元の死で、嫡子氏真が清和源氏足利氏流の名門今川家の家督を相続する。
       今川氏真、元康へ駿府帰還を命じるも断られる。

       信長、稲葉山城攻略の為、墨俣に砦を築くよう佐久間信盛、柴田勝家に命じるがいづれも失敗。

  1561年 斎藤義龍、病死(享年33)。病状回復の為、道三が用意した妙薬(実は毒)を飲み死去したとも言われる。
       義龍の嫡子龍興(14)が美濃斎藤家の家督を継ぐ。
       信長、龍興と森部十四条で戦い勝利(墨俣塁を奪取)。
       信長、稲葉山城を攻撃するが敗退。
       元康、織田征伐を訴えるも氏真に(織田へ)攻める魂胆がないと確認するや信長に接近する。
  1562年 信長、元康と同盟(清洲同盟)。信長は西征、元康は東征することを誓う。
  1563年 松平元康、家康と改名(義元の偏諱により与えられた「元」の字を外す事で今川家との断絶を意味)。
  1564年 主君斎藤龍興の倣岸さに失望しその行動を諌める為、美濃の竹中半兵衛重治とその舅安藤守就、稲葉山城を
       僅か十六騎で占拠するという神業をやってのける。城主龍興らは祐向城へ逃亡。
       信長、舅道三の形見である稲葉山城を切望。半兵衛に美濃半国と引き換えに城を明け渡すよう迫るが、これを拒否。
  1565年 半兵衛、主君龍興に稲葉山城を返還し、自らは隠遁。北近江の浅井長政の客分となる。
  1566年 松平家康、徳川と改名し徳川家康となる。
       信長の家臣、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)、西美濃墨俣の地に砦を築く。
  1567年 半兵衛、藤吉郎の執拗な勧誘に折れその与力となる。以後藤吉郎の軍師として活躍。
       美濃三人衆…氏家常陸介直元(卜全)、安藤伊賀守守就、稲葉伊予守良通(一鉄)、龍興を見限り信長に寝返る。
       信長、斎藤龍興の稲葉山城を攻略し「岐阜」と改名。信長、美濃を併合し広大な濃尾平野を手中に収める。
       龍興、稲葉山城を脱出するも捕らえられる。龍興、信長より船を用意され伊勢長島に逃れる。
  1568年 信長、足利義昭を奉じて上洛。
       義昭、征夷大将軍に補任され、室町第十五代将軍となる。
       義昭、信長に「副将軍」もしくは「管領」の室町幕府要職に就く様勧めるも拒まれる。
       武田信玄、駿河に侵攻。今川家当主氏真ら非戦闘員二千名、掛川城の朝比奈泰朝を頼る。駿府炎上。
  1569年 家康、遠江侵攻。掛川城を包囲。五箇月持ち堪えるも氏真、開城。
       氏真ら、婚戚関係にある相模の北条氏康の下に落ち延びる。戦国大名今川氏は実質滅亡。
  1570年 家康、東へ進軍すべく、本拠を三河の岡崎城から浜松城に移す。

戦国前期 桶狭間合戦時 信玄上洛

 ※ここまで事細かく書いておりましたが、この方法だと情報量が膨大になるだけでなく時間を費やしてしまう為、省略いたします。


織田信長の業績

○情報の価値を評価する
 織田信長は田楽狭間(桶狭間)の戦いで今川義元を討ち取りました。その際の論功の席で
 勲功一番は「義元公、田楽狭間にて御休憩」の情報をもたらした簗田(やなだ)政綱とし、義元の首級を挙げた
 服部小平太、毛利新介は第二とした。

 情報の価値を初めて認めた。通常、直接大将を討ち取ったものを「一番手柄」としていた当時の評価を根底から覆すもの。
 信長以前の時代にはこのような評価はされなかった。


○市場経済の導入、活発化
 楽市楽座の導入。関所の撤廃。

 当時、関所を設置することは常識でした。戦国時代故に関所で関税を取ることで軍資金や徴兵にその収入を当てて使用したり、
 敵の偵察を防ぐ効果として必要とされてきましたが、信長はそのマイナス効果よりも、人の往来を優先したことになります。
 出店するにもお金が必要だった時代に領土内の人の往来を自由にし、店も容易に出せる楽市令を交付し町の活性化を図った。


○身分無視の人材登用
 木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)、明智光秀

 農民から武家へと転身することがあり得なかった時代に、信長は若い頃より城下に出て、農民や商人、浮浪者、泥棒に至るまで
 様々な人間と会い、面白い人を積極的に雇い入れることをしていました。
 秀吉は農民出身でありながら、最終的には天下人になりました。明智光秀は流浪の身でありましたが、教養などを買い
 当時、城持ちの家臣がいなかった時代に、城持ち大名として家臣に迎えています。


○比叡山延暦寺焼き討ち ※比叡山延暦寺ウェブサイト → こちら
 中世的宗教支配の暗黒時代を一夜にして覆す。政教分離。

 788年、桓武天皇が王城鎮護の霊場として延暦寺を建て神聖な場所とした。鎌倉時代「日本一の大天狗」と呼ばれた後白河法皇
 でさえ「思うままにならぬもの」と評した比叡山延暦寺も当時は腐敗していた。比叡山の僧達は鎮護国家の道場であるにも関わら
 ず、日常の行儀作法や修業も怠り、女を連れ込み婦女暴行を働き、金銀を貯え、忌を破り獣肉までも食し、天皇の政治へも介入し
 更には僧兵まで持っていた。1571年(元亀2年)、信長は敵対する浅井・朝倉を匿った事を理由に比叡山全山焼き討ちを決意する。
 信長は僧侶が政治に介入したり、軍隊を有していたことを危惧し、不必要と確信をもって攻め立てています。
 信長の家臣は比叡山延暦寺の焼き討ちと聞いて崇りや天罰などと言って身震いさせていたが、無神論者だった織田信長には
 そんな感情は無く…彼で無ければなし得なかったことかもしれない。※この焼き討ちでの叡山側の犠牲者は3000人とも言われる。
 ヨーロッパ諸国はその200年後にようやくこれを打破。信長は政教分離を世界より200年も前に…また1日で達成したことになる。

 千奈美に、比叡山延暦寺は創建以来、信長の此れと併せて2度の焼き討ちに遭っています。
 最初は、戦国前期の1499年(明応8年)、管領の細川政元が根本中堂をはじめ諸堂を焼き討ちにしています。


○華麗な絵画装飾を施した五層七重の天主、安土城(平)
 天守閣が登場したのは、安土城が最初だと言われています。また西洋の文化も多く取り入れ、建築にも応用したと言われる。

 天主の意味:城の中心部に設けられた大櫓(おおやぐら)。戦時には物見台・司令塔、弓・鉄砲使用のための足場として、また平時
 には武器庫として用いた。織田信長が安土城に五層七重のものを造営して以後、多層大形のものが多く出現した。天守閣。

 通常、天守閣と言われているように「天守」としていますが、信長は「天主」と言っていたようです。天の主…いい響きです。
 安土城は残念ながら後に廃城となってしまいます。町並みも現在の近江八幡市に移動しており、安土町は長閑です(^-^;;


○長篠の戦での新兵器の使用。鉄砲を世界で初めて正規戦で使用
 鉄砲3000丁(諸説あり)で、戦国最強を誇る騎馬軍団を持っていた武田勝頼に壊滅的な打撃を与えた。

 種子島に鉄砲が伝来して以来、本格的に戦で使用されなかった鉄砲。連射できない上、弾込めに時間を要す為が導入されない
 一番の理由だったが、信長はいち早く戦に取り入れ、長篠の戦において3000丁の鉄砲を三段構えに据え、鉄砲を打ち続け、向か
 い来る騎馬隊めがけて、鉄砲を放ちました。このような大量の鉄砲が使用されたのは世界陸戦史上初めての出来事で、この戦いと
 同等の銃撃戦がヨーロッパで行われたのは、70年後だと言われています。


○鉄鋼船による毛利水軍の打破。大坂湾の制海権を得て、難攻不落の石山本願寺を降す
 世界初の鉄鋼外装船「大安宅船」を製造。

 1576年、信長は石山本願寺(現在の大阪城付近)に大坂湾より物資を供給していた毛利水軍と戦った。
 この際、700隻の大船団を組んでやって来た毛利水軍から焙烙火矢攻撃を受け、織田水軍は大敗している。
 当時の船は木造だった為、火にはとても弱い。そこで鉄鋼外装の船を製造することを考え始めます。居城であった安土城に程近い
 琵琶湖に船を浮かべて数値を出し、織田水軍の長であった九鬼嘉隆が伊勢湾にて厚さ2-3mmの鉄板で船体を覆った鉄鋼戦艦を
 完成させた。しかも、その船はたくさんの鉄砲だけでなく、口径13cmの大砲三門を装備していました。鉄砲の製造技術を応用し、
 近江の鍛冶職人が大砲を作り上げました。1578年、再び毛利水軍700隻の大船団と大坂湾で戦闘をします。対する信長はその
 鉄鋼戦艦「大安宅船」6隻で迎え撃ち、敵の火船による攻撃をものともせず、鉄砲や大砲を撃ちまくり、半日で戦いに大勝利します。
 この戦い以降、毛利水軍と戦うことは無く、大坂湾の制海権を得て、1580年に石山本願寺は信長に屈することとなりました。
 不思議な事に、この大安宅船は信長の死後、忽然と姿を消し、以後の歴史に登場しません。

 このような軍艦を使った海戦も世界史上初のことでした。それ以降に軍艦に鉄を使ったのはイギリスのネルソン提督で、
 大坂湾の戦いから200年以上も後のことになります。それも骨組みに鉄を使っただけで、鉄板は使用していません。
 また、幕末に日本に来たアメリカの黒船にしても同様です。船体自体は木製で黒く塗られていただけです。


○方面軍制度

 これも世界初だと言われています。信長は晩年、戦には殆ど参加しておらず、それは家臣に任せ、自身は政治に関与してます。
 本能寺の変時の織田家の領土は、現在の岡山県から群馬県までと膨大なものになっていた為、管理を行き届かせるように
 信長は方面軍制度を採用したものと思われます。軍律はかなり厳しかったようです。
 本能寺の変直前の方面軍構成は以下の通り。

 織田四天王
 ○北陸平定軍 司令官:柴田勝家 居城:北ノ庄(現:福井) ※変時、上杉景勝の魚津城を包囲中。本能寺の変翌日に落城さす。
 ○関東平定軍 司令官:滝川一益 居城:厩橋(現:前橋) ※変時、厩橋(うまやばし)城で内政。変後、北条氏直に破れ伊勢へ。
 ○近畿管領軍 司令官:明智光秀 居城:近江坂本 ※丹波亀山城を出て本能寺を急襲。直後に京を制圧。安土入城。
 ○中国平定軍 司令官:羽柴秀吉 居城:姫路 ※変時、毛利輝元の備中高松城を水攻め中。城将:清水宗治の切腹で講和。

 ○四国平定軍 司令官:神戸信孝(かんべ・信長三男) ※変時、堺に陣を布いており、当日、四国征伐に出陣予定。渡航中止。
  ※四国平定軍は副将に丹羽長秀。長秀と上記四天王を併せて「織田五将」と言う。
    また事変後は、羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀に加え、池田恒興(母は信長乳母)を併せて「織田四宿老」と呼ばれる。

 遊軍
 ○織田信忠(嫡男) ※父と共に上洛し妙覚寺に陣置。1000人の軍勢を抱えるも本能寺が焼け落ちていた為、御所で奮戦し自害。
 ○北畠信雄(のぶかつ・信長次男) ※変時、自国の伊勢に陣を置く。変後、安土に向かい城下を放火。安土城が姿を消す…(ぉぃ

 外様・同盟
 ○徳川家康 ※変事、堺を訪問中。すぐに伊賀越えをし居城の岡崎へ。途中、穴山梅雪討死。信長の弔い合戦の為、出陣する。
 ○宇喜多秀家 ※変事、まだ10歳であった為、叔父・宇喜多忠家が名代として秀吉の下行動する。以後、豊臣五大老になる。
 ○三好康長 ※信長より四国の阿波一国を与えられる。変事、四国平定軍大将である神戸信孝を迎え入れる用意をしていた。
 ○北条氏政 ※信長の実力を認めていた。信長の武田征伐に際しては協力し、関東口より甲斐へ攻入る。変後、秀吉と不和。

 各方面軍とも、敵対していた相手より兵力は優れており、十分相手に出来ていたでしょう。
 それまでの戦いは、大将(主君)がいなくてはならない戦い方をしていました。
 因みに、何故信長が本能寺にいたかというと、中国征伐中の羽柴秀吉から「毛利攻めの総仕上げとして是非上様(信長)に
 ご出陣いただきたい」との要請があり、明智光秀ら近畿管領軍を先発隊として、信長・信忠父子が出陣する予定でした。
 安土を出て、その途中に京がある為、信長は休息することにしました。その宿舎が本能寺であり、信長上洛の際にはよく利用して
 いました。本能寺はお寺でしたが、堀もあり小城の様なものでした。秀吉は一人でも十分毛利とは戦えましたが、主君に華を持た
 せるという思惑(魂胆)があったらしいです。これを機に信長は一気に九州まで平らげるつもりだったようです。


本能寺の変直前勢力図

人材登用や情報価値については、現在に通じるものもありますが
当時、信長は桁違いのことをやっていた事になります。世界が70年後、200年後にしていたことを、既に行っていた。
地球が丸いことも日本人で最初に理解したと言われるのも信長です…。しかし、現在の常識も当時を生きる人々にとっては
不可解な事も多く、それが本能寺の変を引き起こしたきっかけになったとも言われています。
今の時代…200年後の技術と言うとなんでしょうか…宇宙旅行、宇宙開発、コロニー、タイムマシーンでしょうか?
そう考えると恐ろしいことですね。それだけ信長は当時ずば抜けた知識を持っていたということになります。


本能寺の変

信長はどうして本能寺の変に遭い、志半ばにして倒れたのでしょうか。単に「家臣の裏切り」とだけ認識されている方もいるとは
思いますが、現在の研究では、「光秀怨恨説」「朝廷・公家陰謀説」「羽柴秀吉陰謀説」「徳川家康陰謀説」 「仏教徒陰謀説」等など
様々な推測(見方)が出ています。今回、その中から「光秀怨恨説」と「朝廷・公家陰謀説」について書きたいと思います。

1573年、信長は足利義昭を追放し室町幕府を滅亡させ、浅井・朝倉連合軍を滅ぼし、武田信玄の急死、長篠の戦での武田との戦
いに大勝し、周りにいた敵が一気に消えます。信長政権が磐石なものになっていくのを背景に1576年に内大臣、1577年に右大臣
と官位も次々に昇進していきました。官位を授かることは、天皇の臣下になるということです。しかし1578年、信長は左大臣になり得
る正二位の位階はそのままに右大臣兼右近衛大将の官職を突然辞任、朝廷を慌てさせた。公卿たちの頭をよぎったのは、信長が
足利義昭を奉じて上洛した折、義昭が副将軍もしくは管領職の幕府要職を用意したのに対し、信長はこれを一蹴、やがて利用価値
の無くなった室町幕府を滅亡させた事であったでしょう。「信長は朝廷を廃し、自ら日本国王となるつもりでは…」何とか信長に官位を
と「左大臣へ推挙」する等朝廷内は慌しくなります。しかし信長自身は「天下統一をした時点で復帰する」と言うだけで復職を希望
しませんでした。焦る朝廷は信長が宿敵甲斐の武田氏を滅ぼしたことを好機とし、天正10年(1582)5月、信長に異例の「三職推任」
…即ち、関白・太政大臣・征夷大将軍のいずれの「三職」のうち、望みの官職を用意することを伝えました。

 弾正尹 → 参議 → (権)中納言 → (権)大納言 → 内大臣 → 右大臣 → 左大臣 → 太政大臣 → 関白 = 太閤
 ※征夷大将軍は臨時職 ※左大臣は政務を統べる官…今でいう「内閣総理大臣」に相当 ※関白を子等に譲る人を太閤と言う
 ※唐名…将軍 = 大樹、大納言 = 亜相、中納言 = 黄門、参議 = 宰相、中将 = 羽林中将郎 故に水戸中納言は水戸黄門と呼ぶ

関白にしても信長がなれば初の武家関白の誕生。征夷大将軍に関しては、信長はもともと藤原氏でしたが、日本古来よりある、政権
「源平交替思想」の影響を受けたのか、天下取りがある程度見えてきた頃から平氏を名乗っています。過去の歴史を見ると、武士で
は源氏以外、将軍にはなっておらず、どれをとっても「三職推任」はそれまでの朝廷のルールにはないことでした。…日本の歴史で
「征夷大将軍をやってほしい」と朝廷から言われた先例はまずないです…そのことを考えるとよほど朝廷は焦っていたのでしょう。

対する明智光秀は源氏の名門土岐氏の一族であり、学識があって故実に詳しく
「武士で平氏が将軍になった先例はない」ということから、信長の将軍任官の可能性が高くなるにつれ、
「平姓将軍の出現は歴史の秩序を乱す」という思いがあり、日増しに叛意が強くなっていったものと考えられます。
その考えは朝廷や公家にもあったと思われます。光秀は教養人で、過去に朝廷とも何度か接触しており
朝廷・公家が光秀をそそのかし、信長暗殺を促した…。当時、公家らが光秀を簡単にそそのかせる理由がありました。
1582年、織田信長は嫡男信忠を総大将に、甲斐の武田氏を攻め滅ぼしました。その際、信長に同道をしていた光秀は諏訪郡制圧
の戦勝祝いの席で「これまで骨身を惜しまず働いてきたことが報われた」と語ったところ、信長は「その方どこで骨を折ったのか」と
詰問し、重臣居並ぶ席で光秀の頭を欄干にこすり付け、さんざん打ちのめし折檻をした…。その後
信長は、武田攻めに協力をした盟友・徳川家康に駿河(現在の静岡)の国を与え、また家康側に降伏した穴山梅雪(武田一族)へは
甲斐の一部を領土として与えており、家康・梅雪はその御礼に安土を訪問しました。この時、家康等の饗応役(接待)に任命された
のが光秀でした。光秀は饗応役を無事にこなしていました。しかし、信長と家康が対面する接待の当日にある出来事が起きました。
信長は膳の支度の具合を確認する為に光秀邸へ赴くと、夏場ともあって生魚が傷んでいたとみえて、悪臭が漂っていた。
それに激怒した信長は、光秀に接待は任せられないとその大役を堀秀政に替えた。面目を失った光秀は用意した肴や器を堀に
投げ込んだ為、安土城下中に腐臭が漂った。その為、急遽休暇を召し上げられ、出陣の要請が下ることとなる。
光秀自身は、四国平定軍の総大将に任命されると踏んでいたが、それには神戸信孝(信長三男)が就き、秀吉の援軍(先発隊)と
して備中へ赴くよう指示があった。光秀とすれば、秀吉の下で働くよう言われた事は辛かったでしょう。
止めが、現在の光秀の領土である近江坂本、丹波国の全てを没収。その代わり石見国・出雲国を与えると信長が伝えてきました。
石見国・出雲国は今だ敵方の毛利輝元の領土であった為、切り取り次第と言われたということです。
このことで、光秀は既に信長に恨みを持っており、朝廷が光秀をそそのかし、変が起こったと言うものがこの朝廷陰謀説。

現に光秀が本能寺で信長を討った後、公家らは戦勝祝いや官職を授けようとすばやく動いています。
後に主君(信長)の弔い合戦に勝利した秀吉が調べるほど怪しかったようです。

信長は三職推任の返事を保留したといわれていますが…彼はその返事をすることなくこの世を去ってしまいました。
私の考えでは、信長は征夷大将軍になろうと考えていたのではと推測しています。大坂城を築き、そこを織田政権の地盤にすると
共に幕府を開く構想を持っていたであろう信長。その意思は秀吉に受け継がれていく事となりますが、信長が生きていれば、日本の
歴史は大きく変わっていたことでしょう。首都は大坂、鎖国はなく欧州文化や外来語を柔軟に取り入れることによって和洋折衷という
新しい時代(文明開化)を迎え、世界と渡り合える国家となり、全てが現在の日本に通じるものとなっていたかもしれません。

→追伸
晩年、織田信長は日本全国に影響を及ぼしていました。
東北の大名、伊達輝宗(政宗の父)は早い時期から織田信長へ駿馬等の贈物を送っており、友好関係が出来ていました。
九州に至っては豊後の大友宗麟が、自身キリシタン大名であった為、それに好意的な信長に薩摩の島津義久との調停を
依頼しています。信長はそれを受け、島津に「大友を攻めぬよう」に伝え、義久も了承。
信長が本能寺で横死するまで、この約束が破られることはありませんでした。

→補足
 ○那古屋…現在の名古屋 ○大坂(おおざか)…現在の大阪 ○大安宅船は全てが鉄鋼ではない。骨組みは木材でした。

→織田家豆知識
  本能寺の変時、嫡男信忠と行動を共にしていた織田長益(信長弟、のちに利休七哲)は敵勢に二条御所を囲まれた際
  潔く信忠に切腹をするよう勧めた…しかし当の本人は二条御所を脱出…人々から逃げの有楽と不本意な仇名を付けられました。
  この人、後に織田有楽斎(うらくさい)を名乗り、東京の有楽町は有楽斎の屋敷跡で、いまにゆかりの地名を残している…笑。
  本能寺の変時、織田信忠は26歳。家臣からの信頼も厚く、父勝りの部分もあった為、彼がここで生き残っていたら…
  秀吉は易々と織田家を乗っ取ることは出来なかったでしょうし、歴史は大きく変わっていたものと思われます…残念。

→総括
  現在の日本には織田信長のような革命児が必要で求められてもいますね。最近のテレビ番組でも、首相にしたいランクで2位でし
  た(1位は坂本竜馬)。小泉首相が誕生した当時「織田信長」とか言われてましたが、全然違います(笑)ライオン先生です♪
  織田信長の様な人は二度と現れないのかなと思っています。私は信長や歴史に偉く詳しい人間な為、多分歴史教科書を見ずに
  教壇に立てると思いますし、エピソードも沢山記憶してるので、楽しい授業になるかと(笑)そういうのを目指してもいいかなと…
  ただ、ずば抜けて知識がある為に、普通の人はどこまで分かると言う敷居が全く分からない自分がおりまして…悲しいです…。
  織田信長に興味を持つ前の私に会って話しをしてみたいのですが(^-^;;
  織田信長ファンからすれば、娘。メンバーなどから名前が出るだけで嬉しくなってしまうもので…
  日本人に知らない人はいないのかな?とも思っています。でも、本能寺の変がなんだったか知らない人は60%以上なのは脱帽謎

※当サイトに掲載されている画像、文章、ファイル、HTMLソース等の無断転載及び使用を固く禁じます。
 

--- 大数 ---

一、十、百、千、万、億、兆、京、垓(がい)、丈(し)、壌(じょう)、溝(こう)、砂(かん)、正(せい)、載(さい)、極(ごく)
恒河沙(こうがしゃ)、阿僧梢(あそうぎ)、那由他(なゆた)、不可思議(ふかしぎ)、無量大数(むりょうだいすう)
 
以上。 戻る